青島ビーチパークから
望む、未来という景色

長友 安隆 青島神社第二十代宮司 × 
宮原 秀雄 青島ビーチパークコンテンツプロデューサー

まず長友宮司がこれまでみてきた青島とは、どんな場所でしたか?

長友

私の幼少時代といえば新婚旅行ブームの最後です。年間で100万人くらいの観光客で賑わっていました。この島から通学していたんですけど、学校に行けないほどたくさんの観光客がいたんです。浜辺も海水浴場として整備される前の状態でしたが、芋を洗うかのように人が海に入っていました。あの頃は夏が終わるのをとても寂しく感じていたのを覚えていますね。

当時の青島は、たくさんの団体客を受け入れるような宿泊施設も充実していましたね。

長友

青島橘ホテルが大型の収容施設としてまだ機能していた時代です。でも僕が東京にいた頃には完全に閉業していて、帰省するたび地元に活気がなくなっていくのを感じていました。その少し前にリゾート法が施行されて最初に宮崎が指定されたので、もう一度活気づくんじゃないかと地元は期待していたんです。でも高級リゾート志向でやっていたのが時代に合わなかったのかもしれません。リゾート法で観光の次世代に移るのかなって気もしたのですが、そうはなりませんでした。

宮原

宮司とお話しするようになった頃、東京にいた頃から感じていたもどかしさ、宮崎の海にはポテンシャルがあるのに活かされていないってお話されていたのをすごく憶えてます。青島ビーチパークが始まる年のお正月でしたね。

そもそもグリーンルームフェスを立ち上げたのは、どんな経緯だったのでしょうか?

長友

僕は宮崎に帰ってきてからずっと青島の活性化に取り組んできたんですよ。海の家がなくなって久しかったので、テントを張って飲食の出店するといったイベントを仲間達と地道にやってきたわけです。行政も施設を整備したりと後押ししてくれましたね。でも、ある程度まで進めたときに、この先はやはりプロの力が必要なんじゃないかとも感じていて。宮原さんに出会ったのはそんなタイミングでした。初めて会った時に「海の家じゃなくて、ビーチスタイルを創りたいんだ」って言うのを聞いて、時代が変わるなって感じましたね。

宮原

もともとは海水浴場を盛り上げる目的で、オシャレな海の家をやりたいというオファーでした。でもそうはしたくなかった。僕はサーフィンで海外のビーチに行きますが、カリフォルニアやオーストラリアには海辺で過ごすことを愉しむライフスタイルやビーチカルチャーがあります。日本ではなかなか定着しづらいけど、青島ならこれが実現できるって考えたんです。

ひとつのカルチャーを背景に、音楽だけでなく様々な分野のアーティストが参加するというのが、ほかの野外フェスと大きく違うところですが、意識的にそうなったのでしょうか?

長友

当初は、なかなかそのイメージが伝わりにくかったと思うんですよ。でも行政の職員や周囲の人たちはそれを信じた。実はよくわかってなかったかもしれないけれど、とにかく信じた。実現しようと真剣に動いて、たくさんの課題を一つ一つ突破していきましたよね。

宮原

長友宮司のような地元の方が「いいじゃないか」と言ってくださったのも、とても大きいですね。

長友

古い文化をそのまま残すというのは衰退しかないと思っているんですよ。やはり更新していくから瑞々しい文化であり続けられる。江戸時代、青島は立ち入りが禁じられていました。それを時の宮司が藩主に掛け合って、みんなが参拝できるようにしたのですね。以来ずっと青島は開かれた場所なんです。僕にはきっとそんなDNAが残されているんでしょうね(笑)

そうして青島ビーチパークが開催されて、青島の変化を実感したのはどんなときでしたか?

長友

最初の夏には完全に変わっていました。今まで見たこともない若い人たちが海に集うようになりました。そして夕方のビーチに人のいる光景が信じられなかったんですよ。スケートボードに乗ったり、犬と戯れたり、そんな光景を見たことなかったんです。それまでは海水浴場が6時に閉まると誰もいなかったんですから。

宮原

やっぱり海とのつながりを長くするというのが原点ですよね。フードやドリンクがあれば人は来るし、シェードやベンチがあれば長居してもらえる。ただ、なにより青島の夕陽が落ちてくる景色って誰にも買えない価値があるものですよね。今年はコロナ禍があって、開催出来るのか出来ないのかって状況でした。でも万が一開催できなかったとしても、そこで過ごす時間や風景はなくならないよって言ってました。イベントをやるとか、どんな建物がハードとしてあるかは問題ではないんです。それが今回のコロナ禍でもわかったことでしたね。

長友

海があればそれを愉しむって価値観が定着したのかな。コロナ禍の困難な時代にあっても、その価値観はなくならないっていうのは本当の成果だったのでしょうね。きっかけは場所だったかもしれないですけど、そこから生まれてきたのは、実は生き方だったっていうことですね。

その新しい価値観のもとで、これから青島はどのように変わっていくと思いますか?

長友

宮原さんがいうような青島ビーチパークの初期の目的はおそらく達成したんだろうと思います。近ごろ青島には、海で過ごす時間を人生として感じられる人たちがたくさん集まって出店しています。現状はまだ飲食系が多いですけど、例えば自転車屋さんとかクリーニング屋さんとか、生活に必要なパーツを同じような理念を共有した業態で創っていくようになるだろうと期待していますね。そうした人たちのコミュニティにもなるのが、おそらくAOSHIMA BEACH VILLAGEになるんじゃないでしょうか。前時代の象徴だった青島橘ホテルの跡地に、新しい象徴であるAOSHIMA BEACH VILLAGEが生まれてくる。やはりあの場所じゃないといけなかったんでしょうね。

宮原

僕はグランドデザインが大切になってくると思います。青島ビーチパークっていう点、AOSHIMA BEACH VILLAGEという大きな点、それらが複数の点で線になって、さらに面を成していく。それは青島というエリアの話なんですね。そのグランドデザインって何だと訊かれれば、さっき宮司が生活と言っていたように、暮らしを描くってことです。パークは飲食と遊び、ヴィレッジはここに宿泊と仕事が入ってくる。それってもう暮らしなんですね。「カリフォルニアのように」とか「オーストラリアみたい」でもない、青島オリジナルの暮らしが描かかれるといいですね。

長友

楽しみですね。結局、青島ビーチパークが遺したものって、未来への希望というか、なんか楽しいことができるよね、っていう雰囲気なんです。昔は、ああ夏が終わってしまうって思っていたんですけど、今は次の夏が早く来ないかな、という希望に変わりましたよね。

長友 安隆

青島神社第二十代宮司

1975 年宮崎市生まれ。青島神社で代々宮司を務める社家の家系に生まれ、幼少時代から青島で育つ。高校卒業後、進学のため上京。祭礼の知識や祝詞の基礎を学んだのち、明治神宮で2年間の奉仕。2003年に帰宮し、翌2004年に青島神社20 代目の宮司に就任する。神職として青島神社を執り仕切る傍ら、青島商工振興会の会長として地域の振興にも力を注ぐ。

宮原 秀雄

青島ビーチパークコンテンツプロデューサー

1973年山口県下関市生まれ、愛知県育ち。博報堂に入社後、2014年3月末に退職するまで17年間、アカウントプロデュース職を務める。その後独立起業し(株)CANVASを設立。各種ブランドやクリエイティブのディレクション、新しいコミュニティのプロデュースなどに携わる。青島ビーチパーク始動からその統括ディレクターを務める。2021年冬オープン予定のAOSHIMA BEACH VILLAGEの総合プロデュースも行う。

vol.06 2020 07/04-09/27

Photpgrapher

Kimiyuki Kumamoto
Tomohiko Taniguchi
Osamu Goto

Illustrator

Kenta Sakamoto

Writer

Satoshi Ogura
Arisa Kuramoto

Art Director

Osamu Goto

Producer/Director

Hideo Miyahara